• Momoyo

音楽が音楽を超える


さて若きパガニーニ君とは誰でしょう?と質問しておいて、答えを書くのに3ヶ月かかってしまいました。

答えは成田達輝さんです!

ブリュッセル・チェンバー・オーケストラとの共演で、たまたま私の教会近くのホテルに投宿中で、

「教会のカリヨンが聞こえたから、こんなところに教会があるんだ、ということに気づいて、中に入ってみたら、オルガンの演奏中で、知っているフランクの曲が鳴っていた」

ということで、中に入った時に達輝さんを2012年の王妃エリザベートコンクールの時から覚えていたらしい音楽好きのおじさんに手を引っ張られるようにして連れて行かれ、教会堂の中に座ってランディドルグ演奏会を聴いたということでした。

演奏会中はカリヨンは消すようにしているのですが、この日は係の人が消すのを忘れていました。そして熱心に聴きに来てくれる音楽好きの人が何人かいてくれるおかげで、ランディドルグの途中でたまたま教会に足を踏み入れて躊躇している人がいると、「いいからこっちおいで」的に誘導しているようなのでした。

また、達輝さんはフィアンセの方がオルガンを習っているということで、この日のプログラムにあったセザール・フランクの前奏曲、フーガと変奏曲を(ヴァイオリニストなのに)、すぐに認知したらしい。

それらの色々な偶然によって一日の終わりには友達になっていて、ブリュッセルチェンバーの演奏会も聴きに行かせてもらいました。

達輝さんと話したことはオルガンとヴァイオリンの違いについてではなくて、共通点について、あるいは音楽が音楽を超えていくためのいくつかの特性について、ということだったように、振り返ると思います。三ヶ月経って思い直すと、何をあんなにたくさん話したのかなと不思議に思いますが、頭に残っているのはそういうことです。音楽が音楽を超えるというとかっこいいのですが、楽器を弾いていると楽器のことを考えたり自分の指のことを考えたり、最悪の場合自分のことも考えたりして「足を取られて」しまう時間が多いですが、「楽器を弾いているのにそのことを忘れる」演奏のことです。

弾いている側からすると「教会堂の中が自分の脳内になった気がした」最近の演奏会もそうですし、体は弾いているし音楽は耳に聴こえているのだから「それは音楽なのだ」けれども、音の積み重ねという意味での音楽だけでない、音楽の作り出す不思議な状態。しかもそれは、演奏家がその「状態」を目指すから到達するのだ、と私は達輝さんとの会話で確信したのでした。偶然じゃないのだと。

教会で弾いていると、割に「トランス」にはまることは自然であるように感じられます。信仰は、もともと何かに委ねるという心の状態だからだと思います。同じようにすっと弾いてしまうところがある。

ところが演奏会になると急に現実味を帯びてしまって、すっと入れないような時があります。「あそこのドアの陰で穴があくほどじっと見てる人がいるな」とか、特に初めての土地での演奏会で聴衆が自分の正面にいるようなオルガンだと他の情報がたくさん入って来ます。鍵盤とペダルの位置もパイプのそれぞれの音も、よそよそしく感じる場合もあります。

でもそれを全て超えたところで、「なんだろうこの状態は」という場所に、向かうことにしよう、とある時に私も決めたのでした。このランディドルグをやり続ける中で、ある日「守りに入るのをやめた」朝のことを今でも覚えています。

その日から多分10年ぐらい経っているのですが、こうして、娘との方が年が近いくらいの青年との邂逅によって、自分がしようとしていることは「委ねているつもりだったけれど受動的にそうなっていたのではなかった」のだと認識しました。

と、

。。。三ヶ月経ったから、言葉にすることができました。

(言い訳)

ブログを書かないことは、読者には残念なことだと思うけれど、書き手にしてみると「どう書こうかな」といじくりまわす時間が長くなるから、有意義なことでもあります。というよりは、書ける気にならないと書き表せない部分があります。ただ、書くべきことがあまりにも溜まりすぎたので、

お店に走って、MacBook Airを買って来ました。

初代がメモリー不足で倒れてから、2年間自分用ラップトップは持っていなかったのですが、替わりに使ってみていたiPad miniでは、とても書ききれないことがわかりました。

と、いうわけで、旅先のテーブルで、まずは復帰の1ページを書きました!

いつも読んでくださってありがとうございます。

 

*まえがみ*

この夏、前髪を切って、髪を束ねない髪型にしているのは、20年ぶりぐらいのことなのですが、今回のは、日焼け止めを使いすぎずにおでこにシミができるのを防げるかもと思ったこと、眉毛を抜いたり剃ったりしておいてわざわざ書き足すのに飽きて、自前のを復元してみたいと思ったこと(前髪があると、微妙な復元中盤でも、全然見えない)からです。つまり、前髪は「すだれ」として、復活したのでした。自分の顔としては、やや見慣れないので、人にも「誰かと思った!」と言われ続ける日々で、嬉しいやら悲しいやらなのですが、秋になったら多分元の髪型に戻るでしょう。知らない人になる楽しみは夏の間はいいけれど、この「誰?と思う」顔で子供達にオルガンレッスンを教えるのはなんとなく気がひけるから。


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3月1日(日) 教会で、子供達に「砂漠を40日歩こう」の歌を教える。 私の仏語の発音を一つ、小さい子が(小さい声で)直してくれた。 か…可愛い〜。心がほっこりした、受難節第一週の日曜日。 3月2日(月) オルガンコンサートのアシスタント。 フランツ・リストの作品を聴いていたら、 疫病の多い時代、リストも苦労したよねと急に思う。 数日後に日本に行く予定なので、午後は春服を何枚か買った。 でも、音楽院

間(ま)のことは、 音楽の人も 文学の人も ダンスの人も、 いつも考えている。 美術の人も 考えているらしい。 武術の人も スポーツの人も 考えていると聞いた。 間とは何か? 音楽では 音がない時間 と定義できる。 自然に存在する沈黙と違い、 音楽の間は、 音と音で区切られた沈黙になる。 オルガンはリリースを 指をあげるだけでできるので、 間の前の音の長さを 精密にコントロールできる。 すると 次