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違い
私が仏語をまだ話せなかった頃、
夫が考えていたことの少ししか、
自分は汲み取れていなかったと思う。
でも、カップルはみんな随分違う。
思い出すと、私と夫は出会った時、
おきまりの「付き合ってください」
という文章をどちらも出してこなかった。
何も約束しなかった。
のちに教会で約束を交わした日にも、
カトリック出身とプロテスタント出身、
という違いがあるのだから、
聖餐式は、できない、となった時に、
私は全然平気だった。
結婚式に聖餐式が要るかな?と
思っただけ。
夫はその時とても悲しくて、
エキュメニズムもまだまだ、
と友人にこぼした、ということを
今日初めて知った。
仏語がわかっていたら、
夫の悲しみを
妻は知ることができたのかどうか?
今結婚して二十四年目に
そのことを今更ながらに知って、
自分は無頓着だった、と感じた。
私はよそ者だから、仲間に
入れてもらえないことが
普通だったこともあって、
無感覚だったと思う。
私のプロテスタント教会に行くと、
夫はいつも聖餐式に一緒に与れた。
それはとても幸福な気持ちだったと言った。
だから、自分の結婚式で、妻がプロテスタントだから
聖餐式が省かれたことは、悲しいことなんだと説明した。
私は教会のことは実は屋根だと思っていて、
中に入っている人が、一緒に
違いを尊重しつつ
祈ろうと決めたこと自体が
素敵だと思っている。
悲しむ人がいなくなることを求めるより、
悲しさを祈りで慰める場所を
作ろうとしていることが、
意味のあることだと思っている。
他のことは、意外だと言われるかもしれないですが
私にはよくわからないのです。