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讃える

オルガン弾きになると、人間に対する称賛ではない、何か荘厳な「賛美」の感情を育むことを日課にさせられます。


やっている瞬間はそういう意識はないのですが、勉強する譜面の中身がそういうお題であることが実に多いのです。そして、日曜日になれば、文章化されて隅々まで書き込まれた「賛美歌」を練習して、教会に行き、会衆賛美の奏楽をするので、間違った解釈をしてしまうと歌いづらい、などとすぐに批判されます。ほとんどすべての人が「賛美」に対する気持ちを共有できるイメージを、オルガニストは培わないといけないように、なっているのです。


このことについて、私は非難するつもりはありません。自分たちで選んだ道です。けれども、オルガニストが、神様を踊るような気持ちで賛美したいと思ったとしても、歌えないようなぴょんぴょんした伴奏をすることはできないので、各自、表現したいものが別にあるならば、即興や、別のオルガン曲を探して、そこで自己表現をかなえるようにうまく考える必要があります。


私は伴奏は好きだったのですが、「威風堂々」のような表現が昔は特に苦手でした。ロンドン時代の友人Fちゃんが「これ聴いて勉強した方がいいよ」と言って、わざわざワーグナーのローエングリンか何かをカセットにダビングして(懐かしい)くれたぐらい、オルガン弾きとしては荘厳な表現ができませんでした。


ある日、私は祈っていたわけではないのですが、急に太陽を飲み込んだような感覚になって、体に「賛美が充満」しました。その時から、オルガンと教会的な賛美の表現に対して、もっともっと「ここには時間的余裕がある」という気分になれて、雄大なものを感じながら賛美の奏楽や解釈をすることができるようになったと思います。


「はっ!」とするような体内の変化があって、急に知覚した体験だったので、そのあと、例えば熱があって奏楽が辛いような時(そうです、以前は熱があっても外出したりする時代だった)、悲しいことがあってそれどころじゃない時も、「堂々とした賛美の表現」のスイッチのありかがわかっていて、オルガンで大きな音で朗々と奏楽していると、式が終わる頃には自分の気持ちも晴々としていることすらありました。


この夏の初めに、ある出会いがあって、私は教会で重要な仕事をしている方から一つの告白をされました。カトリック的に言うと懺悔に近いような心の深淵の言葉を聞いたのです。そのことはたった一つの文章で語られたものでしたが、それは私が特に深く考えもせずに「太陽を飲み込んだような賛美の気持ち」を伝えたが為に、その方の辛い辛い一つの思いが、吐き出されたような状況でした。


相手が神であれ自然であれ、何か大きなものに対して「賛美をできるか」は人間にとって大事なこととして現代では考えられていないので、オルガニストでもない限り、できなくても批判されることもありません。まして、教会で重要な役についている方にそのことについて注意を与える人も、もはやいないでしょう。けれどもご本人が本当に辛い思いをされていることが、私には痛いほど伝わりました。それと同時に、私はオルガンの仕事をしているから、ある種の技術として、「賛美の感情」を知覚する体験があっただけなんだ、とも感じました。


しかし、感情というのは技術になり得るのでしょうか?

逆に、賛美というのは感情を伴う「必要」があるのでしょうか?


さらに、自然に湧き上がってくるものだけが「本物の」賛美なのでしょうか?


そうだとしたら、壮大な山を見たから、涼やかなせせらぎの音を聴いたから、そんな理由で賛美の心が沸いた時には「自分は結局、受け身にすぎない」と言えませんか?


賛美ってもっと自発的なものではないのでしょうか?


どうしてだか、今日はあの言葉を振り絞った方のことをずっと考えています。テレパシーで伝われば良いのに。また賛美のお話をしましょうね、と。お元気に暮らしておられますように。

桃代












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