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ある日小学校から帰ったら、

家の中にはすでに自分の姿が見える。

帰る場所を失って、ランドセルを背負ったまま「僕」は家を離れた…


そんな始まりの話がありました。


その後どうなったのか本筋については全く思い出せないのですが、

家の中にすでに「僕」のドッペルガンガー的なものがいたとき、

僕は家に入ろうとせずに、諦めて出ていく。



もしかしたら少年が勇気を持って一人で

「変わってしまった世界」に挑むという

続きが書いてあったのかもしれないけれども、

世界がある日変わってしまって、

自分のコピー?代わりの人?が

私の住む家に急に住んでいたら、

私は黙って家を出るだろうか?


さらに、そこに住んでいるのが実際私自身で、

急に居場所を失って戸惑っている自分が

実は私ではないのだとしたら。


私ってなんなのか?


カフカの変身みたいに

見た目が入れ変わったのか?


それとも外見も中身も両方入れ変わったのか?

つまり今の自分は何一つ私ではない、


そういうことになる?


ただ自意識だけが、

昨日の自分のまま今日もここにいて、

知らない見た目と知らないアイディンティティを

いつの間にか手にしてしまっている。


そういう想像をするとき

自分の心は少しだけ若返る。


子供の頃、部屋のある一点を眺めていると

ここがここじゃないような

私が私じゃないような

そういう強い思いに支配されたことを、

忘れることができない。


子供は自分の存在がとても危ういことを

よく悟っている、と思う。


もう一人の自分が世界のどこかに存在する物語は、

古い映画だと「ふたりのヴェロニク」(キエスロフスキ監督)など

数多くあると思いますが、

私はもう一人のどこかにいる自分と出会いたいと思ったことはない。


自分の存在はとても儚く危ういものなんだ、

ということを思い出すのが、

好きなのか?


いや、好きなわけではないし、

ロマンを感じるのとも違う。


「人」という漢字は、ふたりの人が背もたれし合っている姿を現し、

人間は一人では生きていけないことを示している、

という説明を小学校で聞いた記憶があります。


でも本当は、自分はふたりいるのだ、

という意味だったらどうでしょうか?


肉体のことは別として、

自分の中にふたりいるのだとしたら?

自分を緩めたときにもう一人の自分が現れるのだとしたら。



長い自粛生活の弊害かどうか、

「主観」でがんじがらめになりそうで、

そこから離れたくて久しぶりに頭の中がSFになった1日です。

























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